トライアンフのモーターサイクルの原点は、19世紀の終わり、創業者ジークフリード・ベットマン(Siegfried Bettmann)がイングランドのコンベントリーに移り住み、成熟したイギリスの自転車マーケットでの事業に投資したときまで遡ります。
間もなく自転車産業はモーターサイクル産業に進展し、モーターサイクル界で最も有名な名前のひとつ、トライアンフの発展が始まりました。
トライアンフの生産したオートバイはやがて1907年からはじまったマン島TTレースで活躍、その完走率の高さで高い信頼性を見せ、高品質かつ比較的安価であるという評価を獲得する。
その後1914年からはじまった第一次世界大戦では、3万台以上のモデルHがイギリスおよび連合軍の軍用車として使用され、その頑丈さと走破性から高い評価を受ける。
だが第一次世界大戦終結後は人員不足から新規車種の開発が遅れ、他社との競争で不利を強いられて業績が低迷する。
低迷打破のために当時著名なエンジン技術者であったハリー・リカルドによるOHV4バルブエンジンを搭載した高性能車モデルRが1921年に投入されるが、生産コストがかかり高価格にならざるを得ないこの車種は販売が振るわず、1923年の超低価格車モデルPの登場と成功までは低迷が続くことになります。
1920年代には自動車会社・ドーソンのコヴェントリー工場を購入しており、1923年、「トライアンフ・モーターカンパニー」として、4輪自動車を発売します。
1929年の世界恐慌により再び業績が悪化したトライアンフは、1932年には自転車部門をラレーに売却。オートバイ部門では新たな主任技師ヴァル・ペイジを迎えて新規車種の開発をはじめました。
1934年には社名を「トライアンフ」(Triumph Co.Ltd )へ変更して改革を推し進めようとするが、自動車部門が財政を圧迫します。1936年、オートバイ部門は自動車部門から切り離され、オートバイ会社・アリエルを再生させた実業家、ジャック・サングスターによって買収されました。
オートバイ専門となったトライアンフは社名を再び「トライアンフ・エンジニアリング」とし、元アリエル開発者のエドワード・ターナーを新たな主任技師としてトライアンフを立て直していきます。トライアンフ再建はペイジの開発した車種を基に改良することからはじまります。
第一歩は単気筒のタイガー系列からだったが、1938年に登場したスピードツインが再建への節目となります。
この車種は当時並列2気筒というだけで珍しかったが、単気筒が全盛だった時代に単気筒車種よりもわずかに軽量で最高速も優るという性能で、車両価格は単気筒よりわずかに高いだけという設定が驚異的であり、スピードツインは大いに売れてトライアンフの財政を一気に好転させる一因となった。
更に翌1939年にはスピードツインの高性能版としてタイガー100が登場、34hp最高速度160km/hで人気を博しました。
1939年に第二次世界大戦がはじまると、先の大戦時のように、トライアンフは軍用車の生産に追われるようになります。
だが、トライアンフを含めて軍需兵器の一大生産地となっていたコヴェントリーはドイツ軍の空襲を受け、トライアンフの工場も爆撃を受けて壊滅。政府の援助により近隣のウォリックに設けられた仮工場で生産が再開されたが、一方で新たな生産拠点としてメリデンに新工場が建設され、1942年には新工場で生産が開始された。なお、トライアンフが第二次大戦中に生産した軍用車は、最終的に約5万台にもなったといわれています。
第二次世界大戦が終結すると、トライアンフは一般車の生産を再開する。戦後最初のラインナップは戦前に生産していた車種の改良版であったが、1949年までにはトライアンフ初のオフロードタイプとなるTR5トロフィーや、スピードツインの排気量を649ccまで拡大した6Tサンダーバードといった新車種を追加。これらの車種は当時開拓されはじめたばかりのアメリカ市場にて、ハーレー等の重厚なオートバイとは違った、軽量で高性能なオートバイとして人気を博していく。
そしてアメリカ市場での成功によりトライアンフは更なる新規車種T120ボンネビル等を発売、メリデン時代トライアンフの黄金期を迎えます。
なおこの時期の1951年には、トライアンフは救世主であったサングスターの手からBSAへ売却され、サングスター自身もBSA役員となり1956年にはBSAグループ会長となっています。
1960年頃から台頭しはじめた日本製オートバイは当初は小排気量車がほとんどだったが、1960年代後半になると大排気量車も登場しはじめ、その性能と品質でトライアンフの脅威となりはじめます。トライアンフとBSAは排気量740cc並列3気筒を搭載するトライデント(BSAではロケット3)を開発するなど日本製大排気量車に対抗したが、1970年代に入っても品質や販売成績で日本製オートバイに優ることができませんでした。
負債を抱え業績が悪化したBSAとその傘下であるトライアンフは、1973年に英国政府の援助でマンガニーズブロンズ)傘下のノートン=ビリヤースと合併、「ノートン=ビリヤース=トライアンフ」(Norton-Villiers-Triumph-NVT)となります。
NVTは1974年に製造の中心をメリデン工場からバーミンガムのBSA社スモールヒース工場へ移転を計画するが、メリデン工場の従業員達がストライキを起こして「メリデン共同組合」を設立、ボンネビルの生産をメリデンで行なうことで工場を存続させる。一方NVTはトライデントの生産が続かずに1977年には倒産、トライアンフの商標権や生産権および資産を共同組合に譲渡する結果となる。
だがメリデン共同組合による経営もアメリカ政府のハーレー救済政策による関税高騰も影響してやがて破綻し、1983年にメリデン工場は閉鎖された。
1984年にメリデン工場は取り壊されたが、不動産開発業で財を成した実業家ジョン・ブルーアがトライアンフの商標権や生産権を購入、新たなトライアンフを立ち上げる。社名は当初「ボンネビルコヴェントリー」(Bonneville Coventry Ltd )、のちに「トライアンフ・モーターサイクル」(Triumph Motorcycles Ltd )となります。新たな会社の生産設備および設計は日本のオートバイ・メーカーには対抗できず、ブルーアは直ちにはトライアンフの生産を再開しなかった。
当初はデヴォンのニュートン・アボットでレス・ハリスの経営する「ハリス・インターナショナル」(L F Harris International Ltd )がボンネビルのライセンス生産を行なった。これは1985年から生産され、ハリスの名やその所在地から、「デヴォン・ボンネビル」あるいは「ハリス・ボンネビル」とも呼ばれた。
ハリス・ボンネビルは基本的にセルモーター等が採用されていない前期型T140を基にしており、ライセンス生産の条件で「生産はオリジナルに忠実に」と規定されていたことから、自動車排出ガス規制などの環境基準へ対処しきれなくなり、1988年には生産を終了してしまう。なおハリス・ボンネビルには、英国仕様と米国仕様の二つがあり、日本においては両仕様ともに1988年まで輸入販売されていました。
1990年には新会社の準備も整いレスターシャーのヒンクレー工場を稼動開始、同じオートバイメーカーであるカワサキの技術を取り入れ、新型トライアンフとしてまったく新しい水冷直列3気筒あるいは水冷直列4気筒を搭載した一連の車種を発表、1991年には車両の本格生産を開始します。
はじめは徹底して部品共通化をはかった「モジュラーコンセプト」による効率的な車種開発が続いたが、徐々に業績を伸ばしたトライアンフは、1997年には直列3気筒という独自性を保ちながら従来のモジュラーコンセプトを脱したT595デイトナを発表、2001年には新たな空冷並列2気筒で往年の車種名ボンネビルを復活させるなど、他社とは違った特徴を持つ車種を送り出していく。
21世紀の幕開けに、トライアンフはヒンクレー工場でバイク生産数10万台を達成し、また、新しく2種類のモデルをリリースしました。その1つ目は、日本メーカーの土俵に真正面から挑戦するスポーツミドルウェイトTT600でした。
599 ccの直列4気筒フューエルインジェクションエンジンと、世界的な称賛を得ることとなる車体を組み合わせたTT600は、このクラスにおける日本製以外の唯一のモデルでした。おそらくトライアンフにとってさらに大きなニュースであったのが、2つ目のニューモデルボンネビルでした。
刺激的な790 cc空冷パラレルツインの新しいボニーは、ルックス、フィーリング、ソウルを1960年代終わりの伝説的なモデル、T120と融合させました。ニューボンネビルはすぐに好評を博し、続いてアメリカのライダーをターゲットとしてデザインされたクルーザースタイルのボンネビルアメリカが発表されました。そして突然、悲劇は繰り返されます。
トライアンフが増産の準備をしていたまさにそのとき、工場が火災によって崩壊したのです。
2002年3月15日の火災により、主要倉庫、インジェクション成形エリア、車体ラインと最終組立ラインは完全に破壊され、残りのエリアも激しい煙によってダメージを受けました。この火事はイギリスで発生した工場火災の中でも最大級のものでしたが、それにもめげず、トライアンフはすぐさま再建に取り掛かり、6ヶ月後には再建された工場で全面操業を開始しました。
研究開発部門はこの火事の影響を受けなかったため、工場が再開するとすぐに、4気筒のスーパースポーツデイトナ600が初めて公表されました。
レース界への再帰の先陣をきる役割を持つデイトナ600は、2003年と2004年のイギリススーパースポーツチャンピオンシップで高い競争力を発揮し、マン島TTレースでは初参戦での勝利をもたらしました。
以降、量産モーターサイクルとして初めて排気量2リットルの壁を突破した驚愕のロケット3や、つい最近フルモデルチェンジしたスプリントSTとスピードトリプルなど、そのほかのニューモデルが続いて発表されています。
現在、トライアンフではあらゆる面におけるモデル開発計画と、絶え間ない設備投資を続けています。
この10年間の後半にも、誰も予期できない進展が待っているかもしれません。
《参考出展》
TRIUMPH JAPANホームページ『トライアンフの歴史』より引用